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オリベ茶陶の美の根源

桃山時代になり茶陶の美意識は従来の中国陶器の美を超越した日本的な美しさが求められるようになりました。茶の湯は日本伝統の礼儀(もてなし)や万葉文学や禅の思想、香道、華道、道具に対する観賞、日本庭園など、すべての日本文化、芸術を総合した最先端の新しい文化として侘び茶が登場しました。

織田信長,千利休、豊臣秀吉、古田織部、町衆といった富豪や朝廷貴人など、立場は違いますが、日本を代表する茶人で文化人でした。そのような文化人の美意識、審美眼から生み出された焼物がオリベ美濃茶陶なのです。

織部茶陶は一般食器にも革命をもたらした
茶陶の生産に携わった陶工は信長が選んだ瀬戸6作と古田織部が選んだ織部10作などの瀬戸から美濃に移った、天下一といわれた優秀な限られた陶工によって生産されましたが、雑器である一般食器にも大きな影響を与えました。現代使用されている食器の原型はすべて桃山時代に開発されたものでそれ以後開発されたものはないとも言われております。

また江戸初期にかけて日本は世界有数の陶器生産国に変身しましたが、織部時代の技術革新の気風が受け継がれた賜物であるとも言われております。江戸時代、陶業の発展は日本を輸出国に導き、日本の近代産業の先駆けをなすものとなりました。桃山時代に起こった織部茶陶産業は日本における産業革命として捉えることができると思います。

桃山時代の茶陶の発明は一般食器にも影響を与えました。従来の木製食器が陶器の食器に一変しました。これは縄文時代以後の日本の食器文化や焼物史にとっても画期的な出来事となりました。。古田織部が成した日本の産業革命の功績は大きいものがあると思われます。




日本のレオナルドダヴィンチ 古田織部
桃山時代の茶陶は桃山時代という歴史の転換期が生み出した焼物で、桃山時代しか出来ない焼物といえます。

古田織部もまた桃山時代という特異な時代が生んだ天才です。特に古田織部は日本の歴史に輝く天才芸術家であり、近代日本の「食器の創始者」であり「近代産業の父」と言える人物です。400年前に産業を組織化し見込み生産方式を採用し、組織的に品質管理して商品を市場に流通した人物は世界広しといえども古田織部以外には居ないと思います。

ある意味では古田織部は利休が完成させた「わび茶」、日本の茶道文化をもとにして日本の「近代陶器文明」を開いた人物といえます。また古田織部は武将で活躍した人物でありながら晩年は「人道主義者、平和主義者」でもありました。

織部研究家の久野治先生は古田織部は日本のレオナルドダヴィンチ(ヨーロッパのルネッサンスをリードした天才芸術家)と評価し、また古田織部は人命を尊重する思想の持ち主で「ハト派」であると唱えておられます。

古田織部については久野治先生の書籍をおすすめ致します。(古田織部の世界 鳥影社 他)

私自身古田織部の名前は知っていましたが歴史に埋没されていたことは知らず、世界的に偉大な人物であることを久野治先生の書物で知りました。

古田織部の死は冤罪 織部は人道(平和)主義者
千利休は秀吉に屈せず佗びの精神を貫いたため豊臣秀吉により切腹を命ぜられたと言われています(1591年)。利休の後を継いだ茶の弟子である古田織部は「大阪 夏の陣」で平和のために働き豊臣方に内通した容疑をかけられ徳川家康によって切腹をさせられました。(1615年)慶長20年家康は古田織部の茶道具を没収しました。

しかし古田織部の「豊臣方への内通説」はいろいろな証拠から古田織部を葬むるための権力側(徳川)によって仕組まれたものであったというのが、研究結果からほぼ明らかにされてきました。

古田織部は茶人として徳川・豊臣両陣営の大名から尊敬され人望が厚過ぎたことに対する徳川政権の妬みと、自由な桃山文化人に対する(自由思想への)危惧によるものとも言われております。父、古田織部の殉死を知った子息4人すべてが織部の墓前で自害しましたが、この事実はただならぬことであります。古田織部が子供たちからいかに尊敬されていたかの証であると同時に、織部に理不尽な罪を着せ死に至らしめた徳川政権への抗議の憤死であり、後世への命をかけたメッセージであると思います。

古田織部は日本を代表する芸術家です。人命を尊重し、平和思想に、殉死した古田織部は思想や意識の上でも時代の先端を歩いた人物だと思います。近代日本の芸術と産業を開き、平和のため殉じた古田織部の功績と生き様は偉大であると強く感じる次第です。

美濃古陶の研究は
織部の死後、織部茶陶は生産されなくなりました。古田織部に関わりのある桃山茶陶の実態は徳川時代約260年間徳川政権の恥部を隠すためか歴史のベールに包まれ封印されておりました。美濃古陶は江戸初期に忽然と姿を消しました。その理由がおわかりいただけたと思います。

古田織部の功績や焼物の織部焼、志野焼などが美濃焼がいつの時代、どこで、誰によって、何を生産されたかさえわからない状況が昭和初期(荒川豊蔵氏の志野陶片発見)まで謎になっていたのは織部の死後、織部の史蹟が歴史から消されていたからだと言われています。

桃山時代の志野・織部の陶工たちの記録などが殆ど残されず口伝されてきたのは織部の死後織部に関する資料が消され残されていなかったからだと考えられます。

焼物としての美濃古陶の研究は荒川豊蔵、奥磯栄麓氏など、数多くの地元美濃古陶研究家が中心となりすすめられてきました。また行政、資料館など公の機関による窯跡の発掘調査などによる考古学的手法による研究で、当時の生産品目などの全貌が明らかにされてきました。

しかし織田信長、豊臣秀吉、古田織部が築き上げた桃山文化を飾る華とも言える美濃古陶(織部茶陶)の歴史的事蹟が、徳川政権によって歴史上から抹殺され書き換えられていたため、考古学的手法だけでは美濃古陶の時代特定には限界が有りました。

20世紀、江戸時代の誤った情報を廃し、古田織部が生涯に関わった事蹟を掘り起こし本格的な研究をされたのは久野 治先生です。久野治先生の長年にわたる古田織部の研究により今まで見落とされていた古田織部の歴史的事蹟が明らかにされてきたことは美濃古陶研究にとってもかけがえのない貴重なことだと思います。考古学資料と歴史的事蹟との整合性についても研究する余地がうまれました。美濃古陶誕生の時代特定等、美濃古陶研究を補う上で、今後大きく貢献されることが期待されています。

また昭和になって京都3条の桃山時代の瀬戸物屋町の有来新兵衛屋敷跡とみられる古井戸から桃山時代の織部焼や志野焼きなどの完成品が1500点以上も捨てられていることが発掘により明らかになりました。これは資料の発見もさることながら信長、秀吉の管理下にあった美濃古陶が有来新兵衛によって販売が任されていた流通の証拠であるともみられております。また有来新兵衛は豊臣ゆかりの商人であり、古田織部との交流が深く、徳川の古田織部と桃山文化への弾圧を恐れて高価な美濃古陶を慌てて、古井戸に捨てたとみられております。これも400年間、の時代を経て明らかになった歴史の証言です。

美濃の陶工たちの実像(誰が、いつの時代に、どこの窯で、何を焼き、どのように伝世されているか)については殆ど研究ができず、なされていない状態であり、今後の研究が待たれるところです。

美濃古陶を理解していただくために、歴史的側面から少し掘り下げ、歴史的な推測も交えながら、織部焼きのお話をさせていただきました。 有難うございました。

ORIBE美術館 館長 西村 克也

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